変化のなかにあり共に変化する場合、その変化に気づけるだろうか

ある目的の為に作られた制度がいつのまにか制度を維持することそれ自体が目的になってしまうというのはよく題材にされるネタだけど、このことを私は母校で身を持って体験した。

私の通っていた高校にはかなり昔からの伝統があった。その伝統は異質なものだったけど目的はちゃんとあって、先輩と新入生の交流、学校についての精神を教える、将来社会に出てからでも耐え得るように鍛える、みたいなイニシエーション的役割が大きかったと思う。でも自分が3年の時に、その伝統を施行したが為にある1年生が不登校になってしまった。それにより伝統を改めて見直すことになった。
ある先生から言われたのは、お前たちは本来の目的を達成するためにこの伝統を続けているのではなく、伝統を維持すること、それが目的になっていると。それ言われてハッとしたことを覚えている。確かに本来の目的からズレていた部分もあったし、この伝統あってこそこの学校だろう、と思っている部分も大きかった。

それから他の先生に言われたのは、例え他から見れば異質なことであっても、それが当たり前の世界のなかにいる人はその異質さに気づけないということ。
当たり前のことを至極当たり前に言われたけど、これはすごく大事なことを教えてもらった気がする。先生が例として見せてくれたものが写真の本。

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自分がこの学校の生徒ではなく他校の生徒としてその伝統の内容を聞いたとしたら、明らかに異質だし気持ち悪いしおかしなことだと思っただろう。
でも自分は1年生の時からその伝統に触れて来てそれが当たり前の世界のなかにいたから、その異質さに気づけなかった。伝統の物神化やフェティシズムがこの盲目的な結果を生んだ。
こういう時にやっぱり客観的思考、客観的視点が必要になるのだろうなと思った。でもなかなか難しいよね。常に何かを考えるときというのは自分の視点、自分の知識、自分の頭を介しているんだから。だからこそ懐疑心というものが大切なんだろう。常に問いかける。これは本当に正しいのか。なぜこうなるのか。もっと別の何かがあるんじゃないのか。すぐ鵜呑みにしない、咀嚼すること。忘れがちだけど実践していきたいと思った。
そういうのを学ぶ、というのかもしれない。